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ダザイオサム[太宰治]

◆青森県五所川原市出身
◆1909年6月19日生
◆東京大→作家




略歴

地元の名士の子として生まれ、学業は極めて優秀「開校以来の秀才」

1909年6月19日、青森県北津軽郡金木村(現在の五所川原市)で、11人中の10番目の子として生まれる。

父は青森県有数の名士であり、多額納税により貴族院議員を務め「金木の殿様」と呼ばれていた。


▲太宰治

青森県内有数の高額所得者である「金木の殿様」の子に対しては学校側からの強い忖度が働き、実際の成績に関係なく成績は全て「甲」とされていた。

しかし、太宰治は成績は極めて優秀であり、実際の成績がすべて「甲」であり、「開校以来の秀才」といわれていた。

※当時の成績評価は、良い順に「甲・乙・平」とされていた。


▲父・源右衛門


▲母・たね

中学時代に作家を志す

1923年4月、県立青森中学校に入学し青森市で下宿生活を送る。

芥川龍之介、菊池寛、志賀直哉、室生犀星、井伏鱒二などを愛読し、作家を志すようになる。

在学中に「校友会誌」、同人誌「蜃気楼」の発行を行う。

1927年、弘前高等学校に入学後、芥川龍之介の自殺に衝撃を受ける。

小山初代と出会う

1928年頃、芸者の小山初代と出会う。

小山初代は後に太宰治の内縁の妻となる。


▲小山初代

カルモチンによる自殺を図る(1回目)

1929年、弘高で起きた「同盟休校事件」を題材とし「学生群」を執筆し、改造社の懸賞小説に応募するが落選する。

12月10日未明にカルモチンを大量服薬する自殺を図り、母たねの付き添いで大鰐温泉で1月7日まで静養した。

太宰は自殺未遂の理由を「私は賤民ではなかった。ギロチンにかかる役のほうであった。」と表現している。

東京帝国大学に入学

1930年、東京帝国大学に入学する。

その後、小説家になるため井伏鱒二に弟子入りする。

太宰は小山初代を上京させ結婚を考えていたが、実家・津島家が結婚に反対し、津島家との分家除籍をすることで結婚を認めさせたものの、期待していた財産分与がかなわず落胆する。

田部シメ子とカルモチンによる自殺を図り(2回目)自分だけ生き残る

分家除籍となった10日後、銀座のバーの「ホリウッド」の女給・田部シメ子と鎌倉・腰越でカルモチン自殺を図り、田部シメ子は亡くなり太宰は生き残る。


▲田部シメ子

小山初代と結婚する(内縁の妻)

1930年12月、太宰治と小山初代が仮祝言を挙げ、1931年2月、東京都品川区で所帯を持つ。入籍は認められなかった。

1932年、小説家になると決意し「思い出」「魚服紀」を執筆する。

1933年、「列車」を「サンデー東奥」上で発表、同人誌「海豹」に参加、同人誌「青い花」を創刊する。

首吊り自殺を図り(3回目)未遂に終わる

1935年、卒業が困難となりつつあり、仕送りが打ち切られたときのために新聞社の入社試験を受けるが不合格となり、鎌倉で首吊り自殺を図り未遂に終わる。

学費未納のため大学を除籍となる。

佐藤春夫から評価されるが芥川賞では落選

同人雑誌「日本浪漫派」で発表した「道化の華」が佐藤春夫に評価され「及第点をつけ申し候」と葉書をもらう。

佐藤春夫が選考委員となっている「第1回・芥川賞」の候補となるが落選する。

1936年、佐藤春夫あてに芥川賞受賞をお願いするため4mもある長い手紙を出す。

しかし、太宰の私生活の乱れが問題視され、第2回以降は候補にもならなかった。


▲太宰治から佐藤春夫への手紙

小山初代とカルモチン自殺を図る(4回目)が未遂、その後離別

1936年10月頃、太宰が薬物中毒の治療のため入院している間に、太宰の親類の小館善四郎が小山初代と不倫関係となる。

1937年、小館善四郎が小山初代との不倫を告白し、3月に太宰治と小山初代が共にカルモチン自殺を試み未遂に終わる。

6月に初代と離別する。

石原美知子と結婚(正式な妻)

1938年、井伏鱒二の紹介で石原美知子と見合いし、翌年1月、井伏宅で結婚式を挙げる。

正式に入籍し、石原美知子は津島美知子となった。


▲石原美知子

9月から東京都三鷹に住み、精神的に安定し、「女生徒」「富嶽百景」「駆け込み訴へ」「走れメロス」を残した。

1941年、文士徴用令に呼ばれるが、身体検査で肺浸潤と判断され徴用を免除される。

1941年、長女・園子が生まれる。

太田静子と会い不倫

1941年12月、太田静子と会い、不倫関係となる。

妻・美知子から疑われるようになったため、一番弟子の堤重久と引き合わせたりしたが、静子に断られる。

1944年、長男・正樹が生まれる。

実家の津島家に疎開し終戦を迎える。

1946年11月、東京に戻る。

1947年2月、太田静子と再会する。

1947年3月、美容師の山崎富栄と出会う。

1947年3月、次女・里子が生まれる。


▲山崎富栄

代表作「斜陽」がベストセラー「斜陽族」が流行語となる

1947年12月、「新潮」で連載された代表作「斜陽」が単行本となりベストセラーになる。

「斜陽族」が流行語となり、太宰治は流行作家となる。

太田静子との子を認知する

「斜陽」の登場人物のモデルとなった歌人・太田静子との間に娘・太田春子が生まれ、太宰は認知する。


▲太田静子と娘・春子

大ヒット作「人間失格」執筆

1948年、大ヒット作「人間失格」を書き上げる。

このころは、山崎富栄が愛人兼秘書のような存在になっていた。

太宰治死去・玉川上水で入水

1948年6月13日、山崎富栄とともに玉川上水に入水し2人とも死去する。太宰は満38歳であった。

1998年に遺族が公開した遺書では、美知子宛てに「誰よりも愛してゐました」とあり、自殺の動機は「小説を書くのがいやになつたから死ぬのです」と説明がされていた。

【出典】https://ja.wikipedia.org/wiki/
【出典】新潮日本文学アルバム「太宰治」


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