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紀元後5世紀~7世紀・・中国の冊封体制からの自立




律令国家の形成・「日本国」の成立

 

渡来人の技術の導入(ワカタケル大王の時代)

475年、高句麗の大軍により百済の都・漢城が陥落した。それにより百済から多数の人々が日本に渡来した。

日本の技術向上に貢献
渡来人たちは、陶作・錦織・鞍作・画などの技術を持ち、東漢氏などを中心に組織化された技術者集団を形成していることもあり、日本の技術の向上面に大いに貢献した。

文字や文書作成の知識をもたらす
渡来人たちは、漢字を用いて日本の様々な記録や外交文書の作成なども行い、日本の中央集権体制の整備に大いに貢献し、後の律令政治の礎になったと考えられる。

天皇の系譜の明確化
このころから天皇の系譜と歴史書の整合が見られるようになる。
この時代は第21代・雄略天皇(武王・ワカタケル王)の時代に相当する。

 

日本と朝鮮半島との関係性の変化

伽耶が百済と新羅に支配され日本の支配力も落ちる
562年、日本がそれまで朝鮮半島の拠点としていた伽耶が百済と新羅の支配下に入ったため、日本は朝鮮半島における支配力を急速に失った。

日本の製鉄技術の向上
そのころまでには、渡来人からの様々な技術が活かされ、砂鉄を素材とする製鉄法が開発された。

朝鮮半島への依存度の低下
日本は鉄の自給が可能となりつつあり、朝鮮半島への依存度は下がっていた。

 

蘇我氏の権力掌握

蘇我氏と物部氏の権力争い
6世紀頃、蘇我氏と物部氏がヤマト王権の要職を担うようになり、両家の権力争いが激しくなっていた。

物部氏の没落
587年、蘇我馬子は厩戸皇子(聖徳太子)・泊瀬部皇子・竹田皇子の軍勢を率い、物部守屋を討ち、物部氏を没落させることに成功した。

蘇我馬子が権力を掌握
蘇我馬子は、泊瀬部皇子を第32代・崇峻天皇として即位させ、完全に権力を掌握した。
(※崇峻天皇と厩戸皇子は、どちらも蘇我馬子の娘の夫である。)

崇峻天皇の反発
その後、崇峻天皇は即位から何年たっても政治に介入する蘇我馬子に不満を持ち、様々な形で不満が表面化するようになった。

崇峻天皇殺害
592年、蘇我馬子は、崇峻天皇を部下に殺害させた。
崇峻天皇が儀式に臨席しているときに部下に暗殺させるという暴挙であった。

 

蘇我馬子と厩戸皇子(聖徳太子)の政治

女性天皇が誕生
蘇我馬子は、姪の額田部皇女を史上初の女性天皇である推古天皇として即位させた。

蘇我馬子と厩戸皇子の強固な政治体制
厩戸皇子が推古天皇を補佐し、蘇我馬子・厩戸皇子・推古天皇が強固な政治体制を築き上げた。

厩戸皇子による政治改革
厩戸皇子は、安定した政治基盤の下で、中国の政治を手本とした革新的な政治改革を推し進めた。
代表的なものとして冠位十二階十七条憲法などがある。
これにより、律令国家の礎が築かれた。

 

遣隋使・遣唐使の派遣

 

5世起の日本は中国の冊封体制に組み込まれていた

5世紀の五代の倭王(讃・珍・済・興・武)の時代は、日本は完全に中国の冊封体制に組み込まれており、中国の属国のような存在であった。

当時は、朝鮮半島南部の製鉄等の技術を導入することが最優先事項であり、中国に国の威厳を示すことよりも中国との衝突を避けるほうが優先であった。

 

日本の課題は中央集権体制確立と国の威厳

厩戸皇子(聖徳太子)の政治改革が始まった6世紀後半は、既に日本独自の製鉄技術は確立されつつあった。

そのため、朝鮮南部の技術の導入よりも、国内の中央集計体制の確立が優先事項となっていた。

当時の最重要課題は、世界最強の大国であった中国の隋王朝との良好な関係を維持しつつ、日本の国としての存在を認めさせ、それによって国内の政権の威厳を保つことであった。

 

遣隋使の派遣

厩戸皇子(聖徳太子)は、600年、隋に使者を派遣した。

これは、遣隋使と呼ばれ、この後も引き続いて実施され、894年までの間に19回程度派遣されている。

618年に中国で隋から唐に政権が交代しても引き続き実施され、遣唐使と呼ばれた。


【出典】https://history.kaisetsuvoice.com/kenzuishi.html

 

遣隋使・遣唐使の成果

 

第1回遣隋使(600年)

第1回の遣隋使は600年に派遣された。

隋の文皇帝(高祖)が、倭国(日本)の現状などについて尋ねたところ、以下のように回答した。

「天をもって兄とし、日をもって弟とする。いまだ夜が明ける前に出て跏趺して政治を聴き、日が出ると仕事を止めて弟に委ねる」

文皇帝は日本を対等な国と認めなかった
文皇帝は、この回答を聞き、倭国(日本)に対して概ね以下のような考えを持ち倭国の使いに伝えたと考えられている。
◆倭国の政治の在り方は道理にかなったものではない。
◆倭国は隋と外交を行うレベルにはない。

厩戸皇子は政治改革の必要性を痛感
この結果から、ヤマト王権の政治を実質的に担っていた厩戸皇子(聖徳太子)は、隋の政治を参考とした政治改革を進める必要性を強く感じた。

その後、前出した冠位十二階や十七条憲法の制定などの政治改革が進められた。

 

第2回遣隋使(607年)

第2回の遣隋使は607年に派遣された。

小野妹子が隋の煬帝に対する国書を携えて派遣された。

その国書の中の文面に以下のような文言が記されていた。

「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す」
(※日出ずる処=日本、日没する処=隋、文の意味=日本の天子が隋の天子に書を授ける)

日本の王を天子と表現し煬帝は立腹
これを見た煬帝は立腹し、外交担当官に「今後、このような無礼な蝦夷の所はいちいち自分に見せるな」と言ったと言われている。

煬帝が立腹した理由は、隋に天子がいるのに日本の王を天子と表現したことであり、隋を日没する処と表現したことではないと考えられている。

国書の内容はレベルアップしていた
倭国が隋に示した文言は、煬帝を怒らせてしまう表現が一部にみられたものの、第1回遣隋使の時と比べると格段にレベルアップされていた。
「海の西の菩薩天子が仏教を興隆させているので学ばせてほしい」(趣意)
と記しており、倭国の天子の存在をアピールしながらも、隋の天子が一段上のように表現する配慮も見せている。

 

隋に配慮しつつ倭国の存在をアピール

国書は「隋の政治体制に習い、仏教を中心とした国造りを目指す」ということが強調されていた。

また、隋の皇帝を菩薩天子と持ち上げながらも、倭国の天子の存在もアピールしている。

結果的には、返書とともに煬帝の勅使として裴世清が派遣され、小野妹子の帰国に同行して倭国を訪れた。

隋は、倭国に対する外交姿勢を改め、一つの国家としての存在として認めた面があったのではないかと考えられる。


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