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紀元後3世紀~5世紀・・中央集権国家の形成・中国の冊封体制




ヤマト王権・日本国・天皇制

 

小国分立の時代

3世紀頃の日本には文字が無く、日本の歴史をたどるには中国の歴史書による情報しかない。

倭人(日本人)について書かれた「魏志倭人伝」によると、30国ほどの小国が乱立していたことが記されている。

 

邪馬台国の台頭(3世紀頃)

倭国(日本)に存在した国の一つである邪馬台国は、卑弥呼が女王として統治するようになってから強い力を持ち、争っていた周辺の小国をまとめ、倭の女王として君臨したことが記されている。

卑弥呼が亡くなった後は、男子の王や別の女王が君臨したが、邪馬台国の求心力は徐々に弱くなっていったようである。

次に台頭するヤマト王権との関係性はわかっていない。

 

ヤマト王権の台頭(3世紀頃)

3世紀頃から西日本各地に前方後円墳などの巨大な古墳が出現し始める。

古墳は日本各地に拡大し、約5,000の古墳が確認されている。


▲大山古墳(大阪府堺市)

これらの古墳の施設の構造や副葬品の内容には共通点が多く画一的であり、古墳の寸法が数十メートル~数百メートルと巨大であることから、政治的に統率された中央集権国家が存在したことが明らかで、これは「ヤマト王権」といわれている。

ヤマト王権により築造されたと考えられる古墳は日本全国に拡がっており、存在が確認できていない都道府県は、北海道、青森県、秋田県、沖縄県のみである。

これは、ヤマト王権が、北海道と沖縄を除く日本全体を統率していたことを示している。

 

朝鮮半島との交流(3世紀~5世紀)

当時の日本では製鉄の技術力が高くなかったため、朝鮮半島と積極的に交流することにより鉄資源を確保した。

倭国(日本)は、朝鮮半島の最南端の国である百済・任那・新羅と密接にかかわり、朝鮮半島の南部における影響力を強めていった。

400年と404年には、3国の北部を支配する高句麗が、朝鮮半島における日本の影響力を排除するため、倭国(日本)と交戦し勝利したという記録がある。

倭国(日本)は、対外的な軍事行動をしていたことがうかがえるため、ヤマト王権の政治的基盤は強固だったことがわかる。

 

倭の五王の時代(429年~479年)中国の冊封体制

5世紀の倭国(日本)では、429年~479年の五代の倭王(讃・珍・済・興・武)が、中国の皇帝に貢物を贈り、皇帝の臣下としての官爵を授けられた。

中国皇帝が東アジアの国際秩序を安定化させるために構築した「冊封体制」に倭国(日本)が組み込まれていたことになる。

 

当時の日本と中国の関係

倭国(日本)としては、自国の威厳を示し中国皇帝と敵対するよりも、中国皇帝との衝突を回避し朝鮮半島南部との密接な関係を保つことが重要であると考えていた。

また、当時は倭国(日本)と比べて圧倒的に大国であった中国からの官爵を得るということは、ヤマト王権の権威付けにも役立ったと考えられる。

倭国(日本)は、中国の冊封体制に従順に組み込まれることにより、中国皇帝との衝突を回避し、朝鮮半島南部との交易における優位性を確保した。


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